大白蓮華 1981年3月号

「闇は暁を求めて」
ルネ・ユイグ/池田大作 対談


 蓄積されている量がある限界まで達しなければ無害か、有害であっても致命的ではないのが、核以外の物質の汚染でした。
 ところが、核エネルギーの廃棄物の場合は、それがどんなに少量であろうと、必ず致命的な害を及ぼすのです。
 その意味で、核エネルギーの開発と実用化は、
その目的がたとい平和利用であっても、即時に中止すべきであると考えます。
 そして、もし、絶対的で、永久的に安全な廃棄物の処理法が発見されれば、そのときはじめて利用を再開してもよいと思います。
 しかし、それまでは、
全面的に中止し、危険な廃棄物を生じないエネルギー資源の開発、循環可能で枯渇の恐れのないエネルギー資源の開発に、現代科学の総力を傾注して取り組むべきであると思うのです。
大白蓮華 1981年3月号より


  


池田SGI会長は、30年前に、原発の即時中止を訴えています。
以下、大白蓮華からの抜粋です。


<ユイグ>

 つぎに、いまや核分裂から核融合へと、人々は原子の中に新しいエネルギー源を求めるべきだといわれていますが、これについてはどうでしょうか。 それに対して危険性を感情的に指摘している世論が危険を誇張している面はあるにしても、大丈夫だという専門家たちの議論も少し自己満足的のように見えます。予防の確実さについての技術者の信頼は、時折、裏切られるものです。

 そうした事例として知られているのは、1978年、イギリスのある工場で生じた放射線の”漏洩”です。それは何週間にもわたって気づかれないまま、働いている人々の大部分の健康を害したのでした。

 事実、ルプランス=ランゲ教授が(が1973年6月、テレビジョンで)指摘していたように、事物の自然の働きの中では、視覚、聴覚、嗅覚、あるいは味覚等の感覚が私たちに急を報せるようになっており、それによって、私たちは危険を見破ることができます。核の危険の場合は、私たちの器官が反応するのは損傷を受けたあとで、そのときは、もう遅いのです。

 ただ、人工の探知機だけが、それもたまたま運よく使ったときに、防御の役をしてくれることがあります。「全く偶発事故です」と人々は抗弁します。私たちが恐れているのは、まさにその”事故”なのです。しかも、それは例外的に多く起こることもありえます。広島の原爆は、今日では小さな蒼白い”おもちゃの爆弾”にすぎません。(ドゴール将軍がつくらせたのは、さんざんバカにされたものですが、それでも、すでに広島のをはるかにしのいでいました)が、忘れてはならない警告です。核兵器は人間の上にのしかかっている新しい脅威であり、人々は、しばしば恐怖をもってそれを意識します。

 しかし、なんというジレンマでしょう。今から西暦2000年までには、フランスだけで、200の原子力発電所ができると予想されており、わが国の社会が正常に機能していくために不可欠なものになろうとみなされています。

 もし、技術的な事故を確実に防げる手がなく、悪くすると破滅をもたらすかもしれないとするなら、現代社会は、この廃棄物の恐るべくも持続的な作用に対して、少なくとも、どのように用心すればよいでしょうか。たしかに、計画がないわけではありません。地球内部に核爆発でつくったガラス状のポケットの中に捨てるという案もありますし、それがダメなら太陽の中とか、あるいは恒星空間へ発射するというのもあります。

 しかし、そんなことが、いつ実現できるようになるでしょう。現在のところは、この恐ろしく有害な物質をコンクリートづめにして、毎年何千トンも海中に沈めているのです。この容器が、どれくらいの期間、潮流に耐えられるでしょう。そしてそれが破損したときはどうなるでしょうか?

 注目すべき実例が一つあります。1970年8月、アメリカで、危険な神経性ガスを廃棄しようとして、12500発がフロリダ沖、5000メートルの海底に沈められました。それが、たちまち腐蝕して破損したのです・・・・・。セメントなら、もっと長もちするでしょうが、それにしても永久的なものではないでしょう。 

これらは、人間が、実利的な発展をもらたしてくれる”進歩”を、坂道を滑り落ちるように、そのなるがままにしておくとき、わが身をさらすことになる重大な危険の、いくつかの例にすぎません。しかも、その滑走は、手の施しようのない墜落になるかもしれないのです。


<池田>

 まさにおっしゃるとおりです。しかし、進行を急に止めることは困難です。自由経済を原則としている社会でエネルギーに限らず、自然資源の消費を減らすようにするには、どうしたらよいでしょうか?自由社会では大衆の大部分が、この開発によって物理的利益を受けているのです。

 企業は、競い合って資源を消費しながら、製品を大量に供給してくれます。製品が市場にあふれ、企業間に競争が起こると、商品が安くなりますから、消費者は、そうした事態を期待しているのです。

 もちろん、自由競争をやめて全体主義的な統制経済にすれば、ムダな資源消費にブレーキをかけることはできます。だが、それにともなって、人間のあらゆる行動に対し、権力の干渉が強まることになりかねません。私は、全体主義体制をかつて経験した一人として、これは絶対に避けるべきだと思います。

 したがって、結局は、民衆全体の中に、一人一人に、資源が有限であることへの意識が深まり、この良識の確立のうえから、物質の消費も、生産の競争も、自らの意志で抑制していく以外にない、という結論にならざるをえません。

 とくに核エネルギーの問題は、たんに資源の有限性というだけにとどまらず、たとえ、資源は残されていっても、消費した結果として生ずる廃棄物が人類の生存を危うくしてしまう場合ですから、なおさら深刻です。石油資源の場合も、その使用済みの廃棄物質が大気や水を汚染しますが、核エネルギーの場合は、その何倍も大きな危険性を含んでいます。

 私は、資源全般の消費に対する考えかたの転換が全人類に徹底されなければならないと訴えるとともに、とくに核エネルギーの問題は、過去に人類がぶつかってきたいかなる問題とも質を異にしていることに気づくべきだと言いたいのです。つまり、蓄積されている量がある限界まで達しなければ無害か、有害であっても致命的ではないのが、核以外の物質の汚染でした。ところが、核エネルギーの廃棄物の場合は、それがどんなに少量であろうと、かならず致命的な害を及ぼすのです。

 その意味で、核エネルギーの開発と実用化は、その目的がたとい平和利用であっても、即時に中止すべきであると考えます。そして、もし、絶対的に、永久的に安全な廃棄物の処理法が発見されれば、そのときはじめて利用を再開してもよいと思います。しかし、それまでは、全面的に中止し、危険な廃棄物を生じないエネルギー資源の開発、循環可能で枯渇の恐れのないエネルギー資源の開発に、現代科学の総力を傾注して取り組むべきであると思うのです。もとより具体的にどうすればよいかという案は、私は科学の専門家ではありませんから、言うべきことはできません。しかし、あなたもいわれているように、自然との協力関係を根底にした行き方にならざるをえないのではないかという予感がします。

 太陽のエネルギー、また、この地球上を循環している水、大気の運動エネルギー、また引力のもつ巨大なエネルギー等は、そうした希望の実現の糸口を提供してくれるのではないでしょうか。たんに初歩的な水車や風車というのでなく、もっと進んだ科学の英知をもってすれば、かならずや効率の高い、しかも応用範囲も広いエネルギー資源として開発できるのではないかと期待します。

 それに加えて、事実と数字にもとづく予測というものは、教条的で必然的に理論的な性格をもっていることも考慮に入れる必要があります。科学的楽観主義に過度の信頼をおき、そのことが予測のなかに入れられなかったならば、予期しないことが起こる可能性はつねにあるのです。過度の悲観主義は、その反動として起こる過度の楽観主義と同じ欠陥を生ずるでしょう。未来はけっして正確に割り出せるものではありません。

 あなたが要約して示された危険は過小評価すべきではなく、不慮の事故を考慮に入れておくことが正しいでしょう。しかし、重大で、いずれにしても考慮に急を要する危険については、じゅうぶんに考慮すべきであるという点で、私たちは一致をみたわけです。